抜き書き録〈テーマ:辞書を読む〉

辞書は調べるものだが、若い頃、読みたい本が手元にない時に辞書を読むことがあった。「あ」から読むのではなく、適当にページを繰って拾い読みした。最近も仕事の合間の手持ちぶさたの時間に辞書を時々読む。

📖 『用例でわかる 四字熟語辞典』(学習研究社)

【大器小用(たいきしょうよう)
才能ある人物につまらない仕事をさせること。人材を使いこなせないことのたとえ。

開けたページで一番最初に目についたのが上記の熟語。あまり見慣れないし聞き慣れないが、組織の人事の常である。この熟語の次に控えるのがおなじみの【大器晩成】。偉大な人物は往々にして遅れて頭角を現すとされているが、晩成組の大器はむしろ稀で、実際は早熟組に大器が多いような気がする。

📖  『岩波 いろはカルタ辞典』(時田昌瑞

【落書名筆なし(らくがきにめいひつなし)
いたずらに書いたものに、達筆なものはないということ。

字のかなり下手くそな落書の例

これがカルタ遊びに出てくるとは、昔に興じた者らの教養のレベルの高さがうかがえる。カルタにしては真面目で本気が過ぎるとも言えるが、「早起きは三文の得」や「犬も歩けば棒にあたる」などのわかりやすいものが例外で、カルタには難解な諺や格言がかなり多い。この諺、人気がなくなったせいか、戦後に作られたカルタには一例しかないそうである。

📖 『あいまい語辞典』(芳賀綏・佐々木瑞枝・門倉正美

【ちゃんと】
「入学式くらい、ちゃんとした服装で行きなさい」
「あなたの付き合っている人、ちゃんとした人なの? 何だか心配だわ」
「ちゃんとした生活をしていれば、こんなことにはならなかったのに」
これらの文章でいわれている「ちゃんと」とはどういうことだろうか。

この後に「ちゃんと」を説明する文章が続くが、その正体ははっきりしない。まあ、そこのところは読者がそれなりになんとなくわかってあげるしかない。論理明解であることにこだわらないからこそあいまい語が存在する。

社長「ちゃんと連絡はしただろうな?」
社員「はい、しておきました」
社長「オーケー、ありがとう」

連絡の有無とちゃんとの程度が期待通りでないことは、たいてい翌日になってからわかる。

ジョークの背景知識

こんなジョークがある。

「ゾウはどうして大きくて、灰色で、シワだらけなの?」
「小さくて、白くて、丸かったらアスピリン錠になっちゃうからさ」

面白さの度合は人それそれだとしても、「アスピリン錠」を知らないし見たこともなければこれがなぜジョークになるのかわからない。ドタバタ喜劇やダジャレやことば遊びは背景知識がなくても笑えるが、背景知識がないと笑えないジョークがある。

その日、天国では門番の聖ペドロに急用ができて休んだ。気のいいイエスが自ら申し出て門番を務めることになった。
昼下がり、門をノックする音が聞こえた。イエスが開けると、そこによぼよぼの老人が佇んでいた。老人は言った。
「門番さま、聞いてください。私は老いぼれた大工です。私には一人の息子がいました。とても可愛がっていました。でも、ある日どこかへ行ってしまったのです。ええ、世界中を探して回りましたよ。どこに行っても、みんな息子のことを人づてには聞いたことがあると言ってくれました。でも、実際には見たことがないと言うのです。どうか教えてください。もしかして私の息子はここにいるのではないでしょうか?」
この話を聞いていた門番役のイエスの目から涙が溢れ出した。イエスは急に両手を広げて叫んだ。
「お父さん! 私が息子です。会いたかった!」
「ああ、やっぱりここにいたのか……」
イエスを抱きしめて老人も叫んだ。
「ピノキオ!」

イエスの父もピノキオを作って人間に育てたゼペットじいさんも大工。イエスの父はヨセフ。ゼペットはジュゼッペの愛称で、遡れば聖書のヨセフと同じ名前。イエスの父はイエスが12歳の時に離れ離れになった。いろんな誘いに惑わされてピノキオも行方不明になる。イエスとピノキオには共通点がある。

最初このジョークを英語で読んだが、「大工の息子」というタイトルがついていた。プロットにとって必須ではない。むしろ「父と息子の再会」または「息子をたずねて世界の旅」のほうがいいかもしれない。父のヨセフという名を重視するならジョークを大幅に書き換える必要がある。

人形から人間になった息子を探しに天国までやって来た父親……その父親の話を涙ながらに聞いたイエスは12歳で生き別れた父親のヨセフだと思い、「お父さん!」と叫ぶ……お父さんと叫ばれれば、ゼペットじいさんは叫んだ相手をピノキオだと思うのは当然……という次第でオチがついたのだが、背景知識がないとチンプンカンプンだ。

このジョークを披露すると、3分の1の人が笑い、3分の1の人がポカンとし、そして残りの3分の1が見栄で分かった振りをして小さく笑う。

小麦粉から麺類へ

ランチがすべて麺類だった某年某月のある1週間。次のようなラインアップだった。

月曜日、つけ麺。火曜日、上海焼きそば。水曜日、割子わりご蕎麦。木曜日、皿うどん。金曜日、トマトソーススパゲッティ。土曜日、鶏魚介ラーメン。日曜日、肉うどん。

昼に3段の割子蕎麦を注文するとサービスでもう1段付いてくる。

この週の前後の週でも、ビーフン、冷麺、フライ麵などを食べていた。まるで小麦が主食かのような食生活だった。

小麦が麺になるには手間がかかる。まず小麦を粉にして水で溶き、こねて圧して生地状にし、さらによく延ばしよく打ち、適当な長さに切り揃えたり押し出したりして麺が出来上がる。小麦粉を水で溶くと、2つのたんぱく質が結合する。一つは伸びのあるグリアジン、もう一つは弾力のあるグルテニン。結合して形成されるのが粘弾性ねんだんせいの強いグルテンだ。

グルテンに食塩を加えて生地に圧力をかけると、さらに粘りが増して延ばすことができる。こうして、小麦粉はすでに約1万年前に古代メソポタミアでパンに加工されていた。麺ができるのはパンのずっと後である。麺はいつできたのかをいろいろ調べてみた。諸説あり過ぎて素人の手には負えない。

麺の痕跡と思われるものが紀元前中国の遺跡で見つかっている。本格的な麺の歴史は唐の時代らしいが、朝鮮半島経由で日本に伝わったのはそうの時代で、わが国では平安時代と鎌倉時代に当たる。麺には手で延べる方法と手で打つ方法があり、手延べの代表がラーメンと素麺そうめん。手で打つのは板状の生地を作るためで、それを包丁で細さと太さを切り揃えて麺の形にする。うどんと蕎麦はこうして作られる。

押し出し方式という第三の製法がある。パスタの作り方がそれ。パスタの起源や伝来も諸説ある。やっぱり中国からイタリア半島に伝来したというのが一説。いや、東アジアと東南アジアに広まった中国の麺がインドに伝わっていないぞ、インド抜きにしてイタリアまで達するはずがないというのが他説。

イタリア半島にいた(古代ローマ時代前の)エトルリア人由来だろうというのが別説。ぼくはと言えば、中世の時代に中国と交易していたアラビア商人がイタリアに伝えたという説にくみしたい(但し、ポンペイの遺跡にはパスタに似た料理の壁画が発見されている)。以来、パスタは全世界に広まり、パスタは現在500種類以上あると言われている。

麺類の起源は定かでなくても、連続7日間食べてもうまいと思えるほどの恩恵を享受している。どこかのラーメン店が作ったスローガン、たしか「人類はみな麺類」だったと思うが、なるほどと頷ける。

語句の断章(71)こだわり

「何事にもこだわりをお持ちですねぇ」と言う人は悪気もなく相手を褒めているつもり。そう言われて素直に気分をよくする人もいるが、あまり褒められた気がしない人もいる。こだわりは「拘り」と書く。この文字は「拘泥こうでい」や「拘束」などに使われる。見た目の通り「とらわれている」感じがする。

他人から見ればどうでもいいことや意味のない瑣末なことになのに、当人には自分なりの理由や理屈があって必要以上に気にかけたり強い思い入れを示したりする――これがこだわり。「あの人は自説にこだわる、メンツにこだわる、枝葉末節にこだわる」は決して褒めことばではない。

「うちの魚は鮮度にこだわっています」は自店の強みのアピールであるが、プロとして当然の姿勢だ。「塩にこだわる焼肉店」もそれで結構。但し、「タレで食べたい」と言う客に対して血相を変えて「いや、塩しか出さない」と言い出すと、こだわりが度を過ぎてしまう。どうやらプラスのこだわりとマイナスのこだわりがあるようだ。

『昭和の初めから鰻のタレを継ぎ足ししている」のもこだわりだが、継ぎ足ししないで毎日作るタレとの違いがわからない。店で流すBGMがいつもボサノバだったイタリアンの店があった。「イタリアンなのになぜボサノバ?」と聞いたら、オーナーシェフ曰く「好きだから」。これは一人よがりなこだわり。

イタリアはボローニャの画家、ジョルジオ・モランディ(1890 ― 1964)が描いた絵はほとんどがガラスや陶器の瓶を配置した静物画だった。ほとんどの絵が「静物」と命名されていて戸惑ったことがある。こだわりの画家であり、最初はあまり好印象を抱かなかったが、やがて慣れてきて、まっすぐに自己流の芸術を探求した人なのだと納得するようになった。

あることにこだわりがあっても、それ以外のありようやその他のオプションを認めるのなら、それは決して思わしくないこだわりではない。「郷に入っては郷に従え」は強いこだわりのある主張だが、己の流儀を捨てる覚悟があるという意味では、懐の深い柔軟性のあるこだわりである。

道を聞く、道を聞かれる

目的地への道順がわからない時、以前は駅員、店のスタッフ、通りがかりの人らに聞いたものだ。道を聞く時は目的地を告げる。尋ねた相手がその場所に不案内の場合は別の人に聞く。ホテルのフロント係は目的地を知らなくてもとことん調べてくれる。地図上に線で道順を記してくれたりもする。

スマホで簡単に地図と経路がチェックできる今、道を聞くことはめったにない。しかし、誰かに道を聞かれるのは相変わらずよくある。外国からの観光客、スマホを持たないシニアに道を聞かれる。先日は韓国人旅行者が、スマホでチェックしても行き先が出てこないと言って場所を聞いてきた。オークション会場だったが、無事に突き止めてあげた。

学生時代、奈良にはどう行けばいいかと海外からの旅行者に聞かれたことがある。イタリアのご婦人二人。一緒にいた先輩が「連れて行ってあげよう」とぼくの同意も得ずに申し出た。近鉄奈良線で奈良までお連れした。行き帰りで2時間のボランティア。以来、同行する道案内はやめた。「○○ホテルに行きたい」という旅行者には、タクシーをすすめ、地下鉄なら最寄駅を伝える。

「どこどこまで歩いて行きたい」と道を聞かれるのが困る。一昨日のシニアのご婦人がそうだった。キャスター付きのショッピングカートを引きながら、こちらに近づいてきた。

「ちょっとよろしいでしょうか。この近くにホームセンターはありませんか?」
「すみません、他所から来ている者で、この辺りは不案内なんです」
困った表情をするので、スマホで調べてあげた。
2店舗ありますね。ほら、ここが現在地で、近い方のホームセンターはここから歩いて20分です」
「ありがとうございます」
「今が一番暑い時間帯ですよ。タクシーを拾われたらどうですか?」
「いえいえ、ここまですでに半時間歩いてきましたから、大丈夫です」
何が何でも歩く気満々のようなので、もう一度スマホの画面を見せて、ここを真っすぐ行って二つ目の角を左折して、また真っすぐ行って川を渡り……と懇切丁寧に目的地まで示した。

ぼくよりも年配なので、さらに歩き続けるのはどうかと案じたが、去って行く後ろ姿は矍鑠かくしゃくとしており、今風に言えば「アクティブシニア」の典型のように思えた。求めたものを無事に買えただろうか。

開店/閉店や建設/解体が目まぐるしい現在、地元民ですら最新情報には疎くなっている。他人に何かを聞けば時間も取るし、手を煩わせることになる。自力で調べるにはやっぱりスマホも持たねばならない。他力に頼るのは百円ショップのみで、求める品を自分で探すことはせず、いきなり商品の棚を店員に聞く。早くて精度が高いからだ。

読書――あらすじ、感想、抜き書き

世界文学全集を読破するのはハードルが高い。そう感じる読者のためにあらすじだけを紹介する本が編まれることがある。一冊に数十冊の本のあらすじを詰め込んである。正直なところ、作品のあらすじだけを読むことの意味がわからない。

たとえば『源氏物語』のあらすじを読むとする。はたしてそれは『源氏物語』を読んだことになるのか? 源氏物語の原作を読んだ人とあらすじだけを読んだ人が同じ読書会で書評を交わし合えるのか? 原作あってこそのあらすじである。誰かが書いたあらすじは、作品から切り離された別の作品ではないか。

では、解説書や読書指南書はどうか? ウィトゲンシュタインの難解な哲学書『論理哲学論考』の解説書『「論理哲学論考」を読む』を読めば原作が理解しやすくなるか? 原作を翻訳したのも解説本を書いたのも論理学者であり哲学者でもある野矢茂樹。『「論理哲学論考」を読む』の冒頭、著者は次のように言う。

『「論理哲学論考」を読む』という本を読んでも、『論理哲学論考』を読んだことにはならない。当然のことである。

そう言いながらも、本書を読むことが原作を読むという体験になることを著者は期待している。ぼくはと言えば、先にウィトゲンシュタインの本を野矢とは別の翻訳で読み、その後に野矢の翻訳を読み、最後に『「論理哲学論考」を読む』を読んだ。あらすじや解説書を読むなら、原作の後でなければならないと思う。

読書感想文であらすじだけを書く人がいるが、小中学校の宿題ならともかく、一般の読書家がSNSに投稿する読書感想文はあまり参考にならない。あらすじにも感想にも「ふーん」と反応するしかない。そもそもあらすじとは「粗筋」。原作のストーリーをうまくまとめたとしても、粗っぽい筋しかわからないのだ。読書感想文は本人のためにはなるが、他人には刺激的ではない。

もうずいぶん前から読後感想をまとめるのではなく、さわりやハイライトを抜き書きするようにしてきた(このブログでの投稿も書評会でもそうしてきた)。そもそも本全体の感想を述べても具体的な何かが残ることはない。抜き書きと自分の経験や別のエピソードを関連付けて、その当該箇所について評したり論じたりするほうが読書価値が高まる。

読書の専門家に抜き書きなど役に立たないと主張する人も少なくない。若い頃は抜き書きしなかったが、抜き書きするようになって後日の思い起こしがしやすくなった。本のどのくだりの記述に感心したか――あるいは異論を唱えたか。あらすじや感想に加工する前に、まずは原文を抜き書きして一言書き添える。それが読書の証であり体験である。

食事処の様々な会話

知人との雑談@居酒屋

 落語はやっぱりまくら・・・ですよね。
 最近お気に入りのまくらは?
 家に帰ったら、母親がいただきもののシュークリームを必死に食べていてね。「おふくろ、ダメダメ、そんなに急いで食べたら喉を詰めるよ」と言ったら、おふくろが賞味期限のシールを指差して、「だってここに、なまものですのでなるべく早く・・・・・・食べてくださいと書いてあるのよ」
 そのまくらをぼくに披露するのは3度目かな。

無料大盛り@申告不要のラーメン店

 胡麻担々麺ください。
 (大きな元気な声で)辛さはどうしましょう?
 2辛にからで。
(耳元に顔を近づけて小声で)麺は大盛にしますか? 無料ですよ。

無料大盛り@要申告のうどん店

とり天うどんの大盛り

 週替わり定食、冷たいうどんで。
 はい(と言って立ち去ろうとする)。
 あ、大盛で。
 はい。

政治談議@焼肉店

■ (ロースとカルビを網の上に乗せながら)就任後のトランプ大統領はやりたい放題だね。
 第一次政権時のトランプ大統領を大いに批判していたアメリカ人夫婦がいて、「あの人が大統領だなんて、情けないにも程がある」と言っていた。
 元々は民主党支持の人たち?
 そう。だから次の選挙では当然バイデンを支持した。バイデンが当選し20211月に大統領に就任。
 昨年の大統領選、日本ではハリス候補が有力という識者が多かった。そこの肉、焼けてるよ。
 (肉をタレの皿に乗せて)アメリでは必ずしもそうではなかったようだ。結果、トランプが再選された。さぞかし悔しがっていると思い、アメリカ人夫婦に「トランプが勝ったね」とメールしたんだ。
 ご夫婦はどこの人?
 (肉を頬張りながら)カリフォルニア州。
 基本、あそこは民主党地盤だね。メールの返信は?
 メールに添付してある写真を見てびっくりしたよ。部屋にトランプのポスターが貼ってあったんだ。
 どういうこと? あ、カルビも焼けてる!
 細かいことは省くけど、バイデンの仕事ぶりにがっかりして共和党に転向したというわけ。ハリス候補の敗因は強いトランプではなく、弱いバイデンだった。このカルビはロースよりもうまいね。

酷暑の夏をどう乗り切るか?

先週、大阪市で最高気温が31℃にとどまった日が1日だけあった。連日35℃超が続く日々にあって31℃は想定外の気温だ。その日の深夜から朝方にかけてはエアコンを切り、少し窓を開けて外気を取り入れた。微かに風も感じられて心地よかった。しかし、敬老の日の昨日は再び35℃に戻った。あの日の31℃の体験があだとなり、ぐったりした。

フレイル予防についてはコラムを書いたことがあるが、夏場の健康法については詳しくない。何とか書けそうなのは夏にひたすら耐える日常の過ごし方くらい。今年の夏バテの象徴は「蓄積型熱中症」だと専門家が言う。熱にやられた身体が翌日に回復せず、じわじわとボディブローが効いてくる疲れだ。そんな疲れに苦しまないための『私家版「酷暑の夏を乗り切る7カ条」』をここに記す。

1. 気温が高くて陽射しが強かろうが、息苦しくなるほど蒸し暑かろうが、少なくとも6,000歩、できれば1万歩超を歩くように心掛ける。天然のサウナだと思えば何とか耐えられる。

2. ほぼ毎日半時間~小1時間、ストレッチに励む。歩行不足を補うために股関節を緩めてから下半身筋トレをおこなう。ついでに腕立て伏せを30回ほど。

3. 乳酸菌飲料と一緒にビタミンB類、ビタミンC、マルチミネラルのサプリメントを摂取する。納豆、オクラなどのネバネバ系も意識して食べる。

4. 夏場に本を読んだり考えごとしたりするのは苦痛だが、脳が白旗を上げるまでは何とか頑張る。本は1冊を読もうなどとは思わず、飽きないように適当に拾い読みする。

5. 考えなくても趣味としてできることをやってみる。ワインを飲んだらイラストを速描して色をつける。旅の写真を見てスケッチをする。脳が発熱しないので暑さを忘れられる。

この夏だけで12cm×12cmの小さなスケッチ帳(80枚)を1冊使い切った。

6. シャワーだけでなく、なるべく40℃前後の風呂に入るようにする。クナイプの入浴剤を入れて深く鼻呼吸する。風呂の時だけでなく、常に深い腹式呼吸を意識する。

7. 肉類と夏野菜とスパイス料理を毎日食べる(鰻よりも確実に元気になれる)。冷たい素麺やざる蕎麦に安易に逃げない。今年の夏は冷たい麺類ではたぶん乗り切れなかった。

大した7カ条ではないが、日々仕事をこなしながらルーチンにするのは容易ではない。容易ではないが、せめてこのくらいのことをしないと地球温暖化時代の夏は乗り切れない。

語句の断章(70)間髪

この『語句の断章』では、これまで正用の語句を取り上げてきたが、今回の間髪は誤用であり、「かんぱつ」と読むのも間違いである。ゆえに「間髪かんぱつれず」と読むのも誤り。そもそも間髪などという語がない。

、髪を入れず」という熟語の最初の漢字を「間髪」とし、それを「かんぱつ」と読んだのが誤りの始まり。人間の身体のどこにも、間髪という、部分カツラのような髪は生えていない。

「間髪を入れず」ではなく、「間、髪を入れず」が正しく、「かん、はつをいれず」と読む。間とは何かと何かの隙間のことで、この熟語は「そこには一本の髪の毛すら入らない」ことを意味した。そしてやがて「すぐに」とか「とっさに」という意味に転じた。

講演会などで「間、髪を入れず」と言うと、「あの先生、間違っている」と思われる。そう懸念して、誰もが正しいと思っている「間髪を入れず」を使ってしまうと、それが誤用だとわかっている人に「あの先生、使い方間違っている」とつぶやかれる。

頻繁な誤用によって本家の正用が駆逐されてしまう。そのようにして慣用化した誤用の語句は少なくない。「間、髪を入れず」のように、途中で「、」で区切られる熟語で間違われるのが「綺羅星きらぼしのごとし」。綺羅星という名の星はない。これも正しくは「綺羅きらほしのごとし」である。

綺羅とは「美しい絹の衣装」。それを美しくまとった人たちが立ち並ぶ様子を星にたとえた表現が「綺羅、星のごとし」。「綺羅と星を誤って続けた語」と断りながらも、「きらぼし」を見出しに掲げる辞書もある。正用と誤用が互角に混在する今、それもやむをえない。

おもしろい食事処

一見いちげんの客として店を選ぶ基準に「味」を置けない。誰かに教えてもらう情報も食べログでの評判も味に関しては半信半疑だ。と言うわけで、入店前に得られる情報は店名、店構え、メニュー/値段だけである。店名は重要だ。そば処なのにカフェのような名前、インドネパール料理なのに漢字の店名はセンスを疑う。メニューに誤植を見つけたらだいたいアウトだ。

月に2度ほど行く中華料理店の地下にインド料理店ができた。オフィスを構えるエリアは欧風カレーもインドカレーもスパイスカレーも激戦区だが、インドネパールカレーの店は徒歩数分以内にすでに5店もある。そのうちの2店はかなりの有名店だ。新規オープンのインド料理店ではいい勝負に持ち込めそうにない。

その店の前を通り掛かった。インド人と高年の女性がチラシを配っている。女性が「ランチいかがですか?」と声を掛けてくる。「今週はカレーを2度食べているので……」と言えば、「カレー以外にもいろいろありますよ」と食い下がる。「ビリヤニは?」と、たぶんあるはずがないと見て、言ってみた。「ビリヤニ、あります! セット900円ですが、100円引かせてもらいますよ」。ま、いいかという感じで店に入った。

いろんな有名店で食べてきた自称ビリヤニ通だから、期待薄の覚悟で注文した。待つ間にチラシをじっくり見たら、こう書いてある。

インド人シェフが腕を振るうスパイス豊かな本格インドカレーと日本の粋を感じる本格和そば(茶そば)。全く違う二つの本格料理を一度に楽しめる新しいスタイルのレストランです。

カレーとナンとサラダと茶そばを一度に楽しむ理由がわからない。まさかまさかのコンセプトに驚く。チラシを裏返して他のメニューを見た。もっと驚いた。

〈パスタ〉ペペロンチーノ、ボロネーゼ、明太子。
〈ピラフ〉ナシゴレン、神戸そばめし、高菜チャーハン
〈そば〉温そば、ざるそば、茶そば

この店でカレーセットやビリヤニを注文してよいのかと検証する前に、チキンビリヤニが出てきた。見た目、バスマティライスにしっかりスパイスの味がついているように見える。スプーンで一口食べた。うん? おかしいぞ、まあまあいけるじゃないか。いや、これはうまい部類に入るかもしれない。ヨーグルトソースのライタもビリヤニによく合う。

おかしい、いや、まずまずおいしい……を繰り返し一皿平らげたら、ぼくを案内した女性とは別の高齢女性が「お口直しのデザートです」と言って、プチかき氷を持ってきた。スパイスまみれの口の中がさっぱりした。

ハズレを覚悟して入店し、「おかしい」と感じ、次に悪くない、いや「おいしい」と思い、勘定を済ませて店を出る頃には「おもしろい」になっていた。ぼくの後に8人の客。このおもしろい食事処に誰かをお連れしたいと思えば再訪もありえるが、何が売りで何がおすすめかがわかりづらい店で、何を注文すればいいか……それが悩ましい。