2025年6月のエピソード写真

今年の6月、月末は厳しくなったが、例年に比べると、特に朝夕ははまずまず過ごしやすかった。あっと言う間に過ぎた。わざわざ書きとめるほどの話ではないが、写真を見ながら振り返ってみた。


先週、本ブログ『語句の断章』で「阿漕あこぎ」を取り上げた。阿は曲がり角、ご機嫌とり、親しみを込めた呼称を意味する多義語。白川静がどんなふうに語源を探ったのか。辞書を開いた。だけに一番最初に出てくるだろうと思いきや、収録されていなかった。

事務所からの帰り道、道路工事が長引いている場所がある。ここを歩くたびに、この水道の記号が目に入り、コテ(ヘラ)を連想してお好み焼きを食べたくなる。


かなり巧妙な手口でリュックサックの中の、財布は盗られず、財布の中のクレジットカードだけが抜かれた。利用内容の確認メールが入って気づいた。「利用に覚えがない」をクリックしてカードを無効化し、再発行を申請。インドルピーの通貨で30万円ほど使おうとしたようだ。被害の有無に関わらず、こういう事案は警察に届ける。

蕎麦の有名店で修業した料理人が独立して店をオープンした。行ってみた。いい仕事をしている。二八の硬い蕎麦が自分に合う。それはそうと、天ぷら付きざるそばはすっかり高級料理の仲間になった。

夏に日傘を差すようになって3年目。朝に東に向かい、夕方は西に向かう。片道123分だが、もう手放せなくなった。但し、暑さしのぎの代償として視野は狭くなる。

眼科が処方した2種類の目薬のうち1つが品切れだった。「明日なら入ります」とのことで、翌日調剤薬局を再び訪ねた。自宅に帰るともらったはずの薬がない。あちこちを探し、翌日に事務所でも調べ尽くした。ない。また薬局へ。手渡したと確信した調剤薬局、たしかに受け取ったと思ったぼく。結局、薬局に置いてあった。代金を払い終えたのに商品を受け取らずにその場を離れること。時々ある。

あの日から17年が過ぎた……

今日のこのブログの記事から3スリー2ツー1ワンとカウントダウンしていくと、来月初めに投稿2,000回の節目を刻むことになる(つまり、今日が1998回目の投稿)。第一号は200865日、『新しい発想に「異種情報」と「一種情報」』という記事。文章量は控えめな616文字だった。

何度か12ヵ月の空白もあったが、挫折せずに何とかここまで来れた。約17年間、年平均117投稿、おおむね週2回ペースを続けてきた。本業の企画と並行して、30代後半から講演・研修を始めたが、こちらは10年前にすでに2,000回に到達した。その時、ブログもひとまず2,000回を目指そうという励みを得た。

何か一つのテーマについて深く書くほどの専門分野は持たないが、何でもありなら割と器用に書ける自信はあった。いろいろ企画して書くこともあるが、基本は普段の手書きノートから適宜ネタを拾っている。最初の頃と同様、今も大きなブログテーマはないが、一応下記のカテゴリーを念頭に文章を書くようにしている。

▢ことばカフェ ▢アイディエーターの発想 ▢Eats Journal ▢Items ▢エピソード ▢世相批評 ▢オムニバス ▢五感な街・アート・スローライフ ▢創作小劇場 ▢Memorandum at Random ▢名言インスピレーション ▢思考の断章 ▢温故知新▢本棚と読書 ▢風物詩


実は、今日は途中まで次の文を綴っていた。

風景や花を見る。見て何かを語る。その時、自発的に感じて語るのか……あるいは、その対象に分け入って対象の「声」に反応して語るのか……。ものの見方や語りは、やれ前者だ、いや後者だと、主張は二分されるだろうが、そこに結論があるはずもない。どっちもあるのだ。

ここまで書いて、そうだ、わがブログは結論が出ないことやどっちがいいかわからないことを書いてきた、とふと思ったのである。そしてチェックしてみたら、あと3投稿で2,000回に達することがわかった。

ところで、昼にチキンカレーを食べてきた。カレーは週に1回も食べないが、仮にそのペースで2,000食目に到達するには40年かかる。17年で2,000回のブログ投稿を自賛するつもりはないが、カレーと比較してみれば、まずまず「スパイシーな・・・・・・記録」と言えるかもしれない。

EXPO ’70の記憶

開催中の“EXPO 2025”。自宅最寄りのメトロ駅から中央線で会場の夢洲ゆめしままで、乗り換えなしで所用時間20分と少し。かなり近い。周囲の知り合いで行ってきた人は今のところ56人。もっといるかもしれないが、わざわざ行ってきましたと言ってくる人はいない。「万博、行きましたか?」と聞かれることもない。

行くか行かないかはわからない。蒸し暑い中、混雑に飛び込んだり列に並んだりする気は起こらない。前の“EXPO ’70”を経験しているので、まあ行ってみるのも悪くないと思うが、いや、別に行かなくてもいいとも思う。悩みや迷いですらない。ただ何も考えていないと言うのが今の心境。

何年か前に昔の記念品を整理していたら、英語の勉強に使っていたノート群に紛れた万博の入場券が見つかった。行った回数は17回と覚えていた。入場券を調べてみた。青年券9枚、青年の夜間割引券6枚、大人券2枚……足して17枚。

(上段)青年券600円 (下段)青年夜間割引券300円
大人券800円

今となっては昔の話、昔の記憶。今回の万博入場券は、平日券が大人6,000円、中人3,500円(夜間券はそれぞれ3,700円、2,000円)。中人とは12歳~17歳で、18歳以上が大人扱いになっている。前回の万博では23歳以上が大人(800円)で、中人というのはなく、15歳~22歳が青年だった。大学1年だったので青年扱い、600円(夜間なら300円)で入場できた。映画料金と変わらない。

17回通って総額8,800円。うち大人券2枚は2度エスコートしたアメリカ人が払ってくれたので、自腹は7,200円。なぜそのアメリカ人はぼくに大人券を買ったのか。「大学生のきみが青年とはおかしい。立派な大人だ。だから大人券を買わせてくれ」と彼は言った。

外国人が珍しく、外国文化もさほど身近ではなかった。英語ができる人材には希少価値があったが、国内にいての学習は容易ではなかった。カセットテープが発売されたのが前年だったから、音声教材も高価で手に入りにくかった。1964年の東京五輪から6年経過、時代はまさに高度成長の盛り。大学ではESSに所属した。

万博会場でアルバイトをする先輩もいた。「いろんな英語を生で聴いて会話できるこんな機会はめったにない」と勧められた結果が万博入場17回だったのである。よくもそんなに行けたものだと呆れられたり小馬鹿にされたが、意に介さず、英語の独習修行を万博と自宅で半年間集中的に続けた。芸はたしかに身を助けてくれたように思う。

万博はかろうじて今も生き残る古いメディアの一つだと思うし、今後は大いに変容する宿命にあるはず。しかし、行きたい人は行き、つまらないと思う人は行かなければいい。ただそれだけのことだ。人にはそれぞれの思いや願望があるもので、他人が容易に窺えるものではない。

語句の断章(67)阿漕

ふことは阿漕あこぎの島に引くたひのたびかさならば人も知りなむ

「あなたとお逢いすることは、阿漕の島の海士あまが網を引いて捕る鯛のように、たび重なったら人も気がついてしまうだろう」という意味の和歌。この歌ゆえに、後々阿漕の名が知られるようになった。阿漕はかつての伊勢の国の「阿漕が浦」の地名に由来する。

阿漕が浦(三重県津市)

阿漕が浦は伊勢神宮に供える魚を捕るための禁漁地で、漁が可能なのは一年に一度のみだった。ところが、ある漁師がたびたび禁を犯して密漁したことが発覚して、漁師は海に沈められてしまう。冒頭の阿漕の島の和歌から、阿漕が「隠し事も度重なると隠しきれなくなる」という意味を含むようになった。

阿漕にはもう一つ、「身勝手であつかましい」という意味がある。こちらは近世以降の新しい用法だが、今日ではこちらの意味が主流になっている。「阿漕なまねをするな」とか「あの経営者は阿漕だ」という例では、欲張りで図々しく無慈悲なさまがうかがえる。

阿漕を悪人と解釈することも少なくないが、むしろ「とことん貪る欲深さ」の意味が際立つ。劇場映画『難波金融伝・ミナミの帝王』では萬田金融を営む主人公の萬田銀次郎が阿漕な人物として描かれた。萬田は同業者や反社に「お前も阿漕な奴やのう」と言われると「照れるやないけ」とつぶやいた。阿漕は金貸し業では褒め言葉なのだ。

萬田金融の利息は「トイチ」。トイチとは「十一」のことで、10日借りたら1割の高利が付く。「地獄の果てまで取り立てる」というのがモットー。阿漕であり非合法の悪徳業者として描かれた主役に対して、トイチに手を出す借り手も自業自得だと罵られてもやむをえない脇役を演じていた。

ところで、あの漁師、実は母のために禁漁地で密漁したという説もある。それなら情状酌量の余地があってもよかったのではないか。伊勢神宮が科した海に沈めるという厳刑は、量刑が重すぎるような気がする。

インド料理店の看板に思う


通りの角に立つ看板に気づいただけで、店は見ていない。当然入店していない。

「パキスタン人が経営する本格パキスタン料理」の店に時々行く。「ネパール人が経営するインド/ネパール料理」の店にも行く。しかし、インド料理と銘打った店で本格的なインド料理を食べてきたという自信はない。

あくまでも一説だが、あるカレー通が言うには、かつてインド人が料理するインド料理は本格的であり、シェフは日本人の舌に合わせる妥協はしなかったらしい。ところが、ネパール人が経営するインド料理店では、本格インド料理にこだわろうとせず、日本人好みの味付けをして人気店になった。現在、日本にあるインド料理店と呼ばれる店を経営し、そこで働いているのはほとんどがネパール人と言われている。

ネパール人の店ではネパール料理も出していたはずだが、表看板をインド料理とするほうがわかりやすい。それが、やがて「インド/ネパール料理」と併記されるようになり、今では主客転倒して「ネパール/インド料理」という看板を掲げる店も目立つようになった。

ネパール料理、インド料理、スリランカ料理、パキスタン料理、そしてアラブ料理など、いろいろ食べてきたし、本も読んできた。インド料理を専門に研究してきた日本人の著書が紹介している料理に、見覚えのあるものは少なく、ほとんどが初見である。つまり、ここ何十年、ぼくたちが食べてきたインド料理はたぶん本場ならではの本格ではなく、日本風のインドカレーっぽい料理だったかもしれない。

定食メニューの最初に「ダルバート」があれば、それは間違いなくネパール料理であり、おそらくネパール人が作っている。「ネパール人シェフが作る本格ネパール料理」は大いにありうる。

ネパールの国民食、ダルバート


飲食業界がグローバル化して、居酒屋の厨房を仕切っているのがアジア人という店が増えている。四半世紀前に東京で「イラン人(らしき人)が握る寿司屋」に少し戸惑ったが、今はどの国の人が何料理を作っても不思議でも怪しくもない時代になった。とは言うものの、「インド人シェフが作る本格日本料理」という看板には依然として少し違和感を覚える。

偏見かもしれないし器用さゆえかもしれないが、日本人シェフなら何料理でも本格的に作ってしまうはず。「日本人シェフが作る本格フレンチ」も「日本人シェフが作る本格中華」も当たり前になって久しい。

街暮らし―日常の記憶と記録

先週、街角の移り変わるシーンと題して書いた。その時から「街」を少々引きずっていて、街という文字を書名に使う本を取り出してはなまくらに読み、掲載されている写真があれば眺めている。たとえば下記の4冊。

『街頭の断想』
『街の記憶』
『街に煙突があった頃』
『街角の事物たち』

いろいろな街があり、様々な切り口――街頭、街角、街並み、街路など――の呼び名がある。街には日常がある。街はよく似たようなことを毎日繰り返す。日常には暮らしがあり、会話があり、事物があり、ついでに言えば、退屈とわずらわしさもある。

かつて非日常とされたイベントや催しなどの体験は、今ではほとんどが日常に取り込まれてしまっている。長く生きてきた市民たちは時代の変化に慌てふためくことが多々あるが、今時の若者らは街中で派生する非日常的現象に驚かされたり意表を突かれたりすることは滅多にない。

ところで、上記の『街角の事物たち』は歌人、小池光の著書だ。「時代のうねりの中に身をさらす歌人の日乗」と帯に記されている。えっ、日乗・・? 日常の間違いか? いや、そうではない。「日乗にちじょう」とは日記のことで、古い時代の表現だ。情報の多い街暮らしでは記憶に頼るだけでは心もとない。どんな些細なことでも忘れないように記録しておかねばならない。漫然と日々を過ごすだけでは、街暮らしは成り立たないのである。

たとえば、近くの橋から西方向を定点観測する。記憶だけでは30年前、10年前、5年前からどれだけ街が変貌したかを認識できない。写真2枚で比較すれば、今と5年前とでは高層建築の棟数と密度が圧倒的に違うことがわかる。記録は記憶再生を促してくれる。

周囲で日記をつけている人は少ない。メモを取っている人は時々見かけるが多数派ではない。たいした記憶力でもないのに、書き留めずにその場で覚えようとする。覚えようとしても、覚えていなかったことが後日わかる。人があまり記録しなくなったのは、筆記具と紙の出番が著しく少なくなったからだろう。

書く時間がなければ、街の写真を撮っておく。できれば一行キャプションを付記しておく。ところで、膨大な数の写真を振り返って気づくことがある。たとえば海外旅行の写真。文字情報がなければどの街角かわからない。しかし、レストランのファサードと食事した料理の写真があれば、極端に言うとその日の1日を思い起こすことができる。

料理の写真を撮るのは食い意地が張っているからではないし、SNSに投稿するためでもない。暮らしの記憶の確認として、日に3度の食事は記憶の扉を開く鍵の役目を果たしてくれている。自分の記憶容量の不足を写真で補っているのである。

街角の移り変わるシーン

移り変わると言えば、雲だ。風の強い日の雲は変幻自在に形を変えて流れて行く。空の青と白とグレーも刻々と混色する。雲は詩人たちにふんだんに題材を提供し、詩人は題材を熟成させて作品を書く。散歩人は雲を見上げてスマホを構えて撮る。散歩人は記録を急ぐ。

定食メニューを手書きで店頭に掲げる中華料理店。先日、メニュー以外の別の貼紙がしてあった。こんな時はだいたい閉店か休業の告知だが、そうではなかった。「750円の定食は〇月〇日から一律850円とさせていただきます」。価格の移り変わりだった。

昨年まで空地だった所にマンションが建つ。2年前まで店舗だった所がホテルに変身する。役所で人口の推移を聞くまでもなく、近所のスーパーマーケットに行けばわが街の人口増がわかる。外国人観光客はどこにでもいる。住宅街の小さなお好み焼き店にもやって来る。

表札の「▢▢想太郎」の文字。高齢になってデイサービスのお迎えを自宅前で待つ、おそらくその名の世帯主。ほぼ毎日通る道だが、裏手はほとんど知らない。そのほとんど知らない自宅兼商業ビルの建物の裏手に古着屋ができていた。タイムスリップのような唐突感。


情報をどこから得ているか? ある人は「読書」だと言う。別の人は「人」だと言う。人というのは人間関係であり雑談や対話のことなのだろう。また別の人は「YouTube」だと言う。新聞やテレビは魅力的な情報としては力不足なのか。

人は必ずどこかの街に暮らしていて、その街が発信する情報を身近に得ている。日々の暮らしの中で目撃するシーンは微妙に移り変わり、ホットな街角情報を提供し続ける。さっき少し歩いてきたが、都会の移り変わりのスピードは1ヵ月前のシーンさえ陳腐化してしまう。

抜き書き録〈テーマ:辞典/絵典/事典〉

📖 『笑死小辞典』(フィリップ・エラクレス/リオネル・シュルザノスキー編;河盛好蔵訳)

この書をやがて死すべきあらゆる人びとに捧げるのを編者たちは幸福とする。

上記は本書の「序にかえて」の一文。この本を深刻に読むべきではないことを暗示している。世界の文学者たちは死について真面目に考えて名言を残し、かつ――それだけでは息が詰まるので――死を軽やかに取り扱っておもしろおかしく冗談っぽく迷言・・も書いた。

「今年死ぬ者は来年は死なずに済む」(ウィリアム・シェイクスピア)
「人は一度しか死なない。しかも永久にだ」(モリエール)
「私はできるだけ遅く、若いままで死にたい」(マルセル・プレヴォ―)
「僕は執行猶予付きの死刑に賛成だ」(ピエール・ダック)

最後の文、「執行猶予付きの死刑」とは死に帰結する人生のことを指している。

📖 『世界の椅子絵典』(光藤俊夫著)

これぞ「究極の心地よさ」と言える椅子を一度も所有したことがない。自分の体躯と気分にぴったり合う完璧な椅子ははたしてあるのだろうか。本書には目移りするほど斬新な椅子のイラストが収録されているが、サグラダファミリアでおなじみのアントニ・ガウディの手になる二人掛けの椅子が図抜けてユニークだ。

実はバルセロナのミラ邸でこの椅子に腰掛けたことがある。ガウディは「直線は人のものであり、曲線は神のもの」と言った。そのことば通りの曲線であり、座する者と葛藤しない座り心地だった。何よりも二人掛けに二人で座るのではなく、隣席を空けて一人で座るのがいい。新幹線で隣席が空いている時のあの気分の良さと同じである。

📖 『現代無用物事典』(朝日ジャーナル編)

平成元年発行の本である。時代が35年も経てば、当時の何もかもが今となっては無用だろうと思いきや、案外そうではない。

駅のアナウンス
どうする。不快97パーセントの親切過保護!

乗り換え情報も次の駅名も、要るか要らないかの二者択一なら要らない。外国ではアナウンスが流れない駅のほうが圧倒的に多い。それ以上に要らないのは車内アナウンスだ。始発駅を出てから3駅目までずっとアナウンスが続く電車がある。電車移動中にはアナウンスを聞くよりもしたいことがいろいろあるものだ。

書店のブックカバー
個性はあるがムダなのだ。十二単衣ひとえじゃあるまいし、本も暑くてかなわない。

えらく愉快そうに無用論を唱えるが、これは勇み足ではないか。ぼくは気にしないが、買った新品の本が汚れるのを嫌がる人もいる。電車内で読めば対面の人に書名が見える。それも気にする人がいる。ブックカバーくらいあってもいいではないか。実際、レジ袋が有料になったため、ブックカバーを所望する人が増えたようだ。ブックカバーは無料である。

語句の断章(66)蘊蓄

蘊蓄うんちくとは「十分に研究を積んで蓄えてきた、学問や技芸上の深い知識」のこと。蘊は「積む」という意味であり、畜は貯蓄に使われる通り「たくわえる」である。

「あの人は熱心に蘊蓄を語る」と言えば褒めことば。ところが、蘊蓄を「ウンチク」とカタカナにすると小馬鹿にした感じに変わる。一般的には「蘊蓄を傾ける」という連語を使うが、これを「ウンチクを垂れる」と言い換えると、これまた皮肉っぽく響く。「ぐだぐだとウンチクするよりも他に時間を割くべきことは山ほどあるぞ」という意味が言外に潜む。

蘊蓄よりも重要なことは世におびただしい。蘊蓄を有り難く拝聴するというケースは稀で、いつ終わるかもわからない専門の知識を滔々とうとうと語られるのは嫌がられる。知識や学問を蘊蓄してきたことと、それを披瀝することは同等の価値とは認めてもらえない。

しかし、蘊蓄を傾けることによって、語る側も聴く側も知識の深みと広がりに気づくこともある。ある特定の知識の知識全体におけるディレクトリー(場所や階層)が見えてきたりする。蘊蓄に付き合わされる側はつらいが、誰かを捕まえて蘊蓄を傾けるのは悪くない。知っていることを誰かに語るというのは究極の知的トレーニングなのである。

高齢者が同じ話を延々とし始めたら、「あ、脳のトレーニングをしているんだな」と鷹揚に構えて聞いてあげるのがいい。

待つ覚悟をして列に並ぶ

自称「待たない男」のぼくが、ランチ処で順番を待った。年に1回なら待つこともあるが、先週だけで2度も待った。スリランカカレーの店内での15分待ちは大したことはなかったが、海鮮料理の列には店外で40分並んだ。食事処の待ち時間の新記録になった。


「半時間待つ」と「半時間待たされる」は同義語。しかし、「待つ」には覚悟がある。待つに値する見返りが期待できるからこその覚悟だ。

「待つ」と言えば、サミュエル・ベケットの不条理戯曲『ゴドーを待ちながら』を思い出す。2人のホームレスが存在不詳のゴドーをずっと待つ。ゴドーは第1幕で現れず、焦れた観客は第2幕に期待するが、ゴドーは劇中でついに現れない。

「待つ」と言えば、あみんが歌った『待つわ』も思い出す。あの曲の「私」も、願いが叶えられるかどうかもわからないのに、かなり辛抱強く待つ。

♪ 私 待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが ふり向いて くれなくても
待つわ(待つわ) いつまでも待つわ (……)

いつまで待つのか? 「他の誰かに あなたがふられる日まで」だから、未来永劫、他力本願で待つのである。



さて、先週の海鮮料理の話に戻る。午前11時の開店時間に行けば、すでに50人ほど並んでいる。誘導されたのは列の最後尾。席数が450もある店なのに1巡目で入れなかった。ところが、ぼくの後ろに新たにできた50人ほどの列を見てほっとした。入店までの40分を長く感じなかった。待つには待ったが、着席して注文してから2分後に食事にありつけたのである。

世界名言格言辞典で「待つ」の項を引いたら、フランスの人文主義者フランソワ・ラブレーの「待つことのできる者にはすべてがうまくいく」が出てきた。待ち続けてチャンスに恵まれなかった例を多数知っているので、これはにわかに信じがたい。

しかし、次のフランスの格言、「落ち着いて待つ者は待ちあぐむことがない」が、まさに海鮮料理店での順番待ちに当てはまった。あの時のぼくは待ち人としては珍しく落ち着いていた。目当ての料理はカツオとハランボのたたきだった。藁焼きの香しい匂いが精神を浄化したように思われる。