街中の崖っぷちを歩く

特定の駅周辺の史跡を巡る『まちさんぽ』というリーフレットがある。Osaka Metroが毎月1発行しているのを一昨年知った。昨年7月に「谷町線/野江内代のえうちんだい駅」周辺のコースを歩き、今回は「谷町線/阿倍野あべの駅」のリーフレットを参考に歩くことにした。

今回は阿倍野駅周辺巡りではなく、そこをスタート駅としてゴール駅「堺筋線/天下茶屋てんがちゃや駅」を目指すコース設定になっている。阿倍野駅周辺はよく知る場所なので、そこからスタートしても新鮮味がない。と言うわけで、Osaka Metroの企画意図に反して、天下茶屋からスタートすることにした。7カ所の見どころを逆に歩いた次第。

天下茶屋は終点駅。駅から東へ歩き紀州街道を渡る。街道と言われてみれば、昔はそうだったのかと思えなくはない。以前一度来たことのある聖天山しょうてんやま公園から正圓寺しょうえんじへ。敷地内に廃墟のようなコンクリート建造物があって、寺は殺風景だ。山門そばに兼好法師の隠棲庵いんせいあん址碑しひがある。すぐ近くを松虫通りが走る。

このあたりは阿倍野区。上町台地の最西端の崖のへりで標高20メートル(ちなみに台地の最北端に位置する大阪城の標高は32メートル)。へりの西側は西成区で土地は15メートルほど低い。

上町台地の最北端の大阪城から左手のあたりがわがオフィス。難波宮跡の左手、台地のへりのあたりが自宅。黒い「―→」が今回歩いたルート。
階段になっているが、感覚的には崖である。

道路のすぐ下がほぼ垂直のような崖で、階段が設けられている。こんな階段が上り下りは容易ではないし、危険区域と言っても過言ではない。歩いた範囲では、こんな階段が3本あた。

上町台地の一画の住民なので、大阪城はもちろんのこと、南方面の四天王寺やあべのハルカスあたりなら歩くことも稀ではない。メトロで行って歩いて帰るか、歩いて行ってシティバスで帰ることが多い。今回は上町台地を初めて体感した街あるきだったかもしれない。

長州藩志士の墓、五代友厚の墓を横目に歩き、昭和ノスタルジーの象徴的な商業施設「あべのベルタ」前に出る。昨秋だったか、SNSでこの建物の地下に老夫婦が営む寿司屋があると知った。10席ほどしかない店なのに、幸いにして席に座れた。シャリが多めの懐かしのにぎり寿司だった。800円代とは今もさすがのアベノ料金である。

フェイクニュースは駆け巡る

いきなりだが、以前書き記していた真実と虚偽にまつわる諺や格言を引用する(どこの国の諺か、誰が言った格言かわかっているが、ここでは省略する)。

🖋 嘘が嘘を生む。
🖋 上手に話すコツは嘘のつき方を知ることだ。
🖋 嘘は花を咲かせるが、実はつかない。
🖋 真実と薔薇の花には棘がある。
🖋 真実は真実らしく見えない時がある。
🖋 人間は真実に対しては氷、虚偽に対しては火である。

最後の諺の氷は「冷たい態度」の比喩であり、火は「心を躍らせて熱狂する様子」をイメージさせる。この諺を思い出したのは、『サピエンス全史』の著者、ユヴァル・ノア・ハラリの「なぜフェイクは広がるか?」というテーマの話をNHK/Web版で読んだ時だ。

「真実はしばしば苦痛を伴います。自分自身、あるいは自国について、知りたくないこともたくさんあります。それに対してフィクションは、好きなように心地よいものに作ることができます。つまり、コストがかかり、複雑で苦痛を伴う真実と、安上がりで単純で心地よいフィクションとの競争では、フィクションが勝つ傾向にあるのです」

本などめったに読めなかった時代、情報はのろまだった。しかし、15世紀の活版印刷の技術が情報を拡散させるようになる。とりわけ偽情報の足は速かった。このメディアと情報拡散の関係が、現在のSNSとフェイクニュースにぴったり当てはまる。事実を調べ上げて原稿を書き、本として発行して販売するにはコストと労力を要する。一方、ほとんどのSNSは無料で利用でき、真偽を曖昧にしたままでとりあえず発信できる。真実が真実らしく見えない時があるのと同程度に、フェイクがフェイクらしく見えない時があっても不思議ではない。

本ブログ記事では極力、固有名詞を書くようにしているし、抜き書きや引用に際しては出典を記すようにしている。冒頭で諺と名言の出典を敢えて書かなかったが、SNS時代では出典が記されていると面倒臭く感じる向きもあるようだ。ちなみに、冒頭の「上手に話すコツは嘘のつき方を知ることだ」というのは『痴愚神礼讃』のエラスムスのことば。論文であるまいし、誰が書いたかなどはどうでもいい、仮に知らせてもらってもエラスムスを知らなかったら、匿名と同じことだ……などと言う人もいるかもしれない。

しかし、いつの時代のどこの国の誰という情報を明示しなかったら、真実と照合する意味はなくなる。付帯情報のない引用文は、適当に脚色したりまったく一から創作したりするのと同じことになる。創作にはフィクションの要素があり、仮に悪意がなかったとしても、フェイクと批判されてもやむをえない。

SNSでは、公園の実名や鳥の固有名詞を書くよりも、匿名的に「とある公園で七色の怪鳥を目撃した」という真偽不明の一文が、真実にはないインパクトをもたらす。昨秋の米大統領選当時、「移民が猫を食べている」という動画はあっと言う間に2,700万回再生された。「移民がペットを飼っている」という平凡な情報に大衆は関心を示さないだろう。

語句の断章(62)蒼穹

蒼穹。読みは「そうきゅう」。蒼は「青い」で、穹が「弓のかたち」。合わせれば、弓形の青い大空。広い青空の意だから、わざわざ蒼穹などと難しい漢語的表現をひねらなくてもいいような気がするが、青空では物足りない文脈があるのだろう(たとえば、浅田次郎の『蒼穹の昴』)。

蒼穹にはいくつかの類義語がある。

晴れた空の意である「青空」。空を天井に見立てた「青天井」。晴れわたる様子の「青天」、そこに雷が轟けば「青天の霹靂へきれき」。一片の雲もない様子で、特に青緑に見えるのが「碧空へきくう」。深い青色になると「蒼空そうくう」。遠い場所の空をイメージさせるのが「碧落へきらく」。どの語にも青くて、晴れていて、大きいという共通の意味があるが、ニュアンスの違いを執拗に求めていくと、類語表現が増えていく。

蒼穹は稀に「天球」という意味でも使われる。そして、どういう経緯か理由か知らないが、天球としての蒼穹(つまり地球)は、あのギリシア神話の神であるアトラスが支えていることになっている。この巨躯の神は地球を後頭部に置いて両腕で持ち上げている。

当然、アトラスは宇宙空間のどこかに立っているはずだ。どの彫刻や絵画でもアトラスは立つか膝を立てて脚で踏ん張っている。踏ん張るためにはどこかに乗っかる必要がある。「アトラスは何に乗っているのか?」と聞かれたら、亀の背中に乗っていると言う。では、その亀は何の上に乗っているのか? 別の亀の上だ。こうして、亀の下に亀、そのまた下に亀……という無限後退の図が描かれる。巨神のアトラスを乗せる亀もガメラ級の巨体のはずである。

蒼穹という表現と「そうきゅう」という発音がなぜ求められるのか。それは、青空のアトラスや地球のアトラスよりも、蒼穹のアトラスのほうが物語性に優れ、想像を刺激するからである。

立春過ぎてまだ春遠し、二字熟語遊び

根性 こんじょう 性根  しょうこん

(例文)太郎は根性わっていて、一つのことをやり遂げようとする性根もある。一方、次郎は性根がなく飽き性。一人前になるためには根性を叩き直さないといけない。

根性とは態度・考え方・行動の根本となる性質である。根性が良いとか悪いという言い方はしない。根性は、あるかないか、または、まっすぐかひねくれているかが問われる。性根は「しょうこん」と読むとおおむね根気の意味になり、「しょうね」と読むとほぼ根性の意味になる。

関税 かんぜい 税関  ぜいかん

(例文)関税脅しは米大統領の切り札トランプの一つだが、実は不法入国や密輸対策として税関がもう一つの課題になっている。

カナダとメキシコの関税を25%に引き上げだ、中国は10%の追加関税だと、粗っぽく、いとも簡単に関税率を変える。米国への輸入品に課される税金を上げれば、国内産業が保護でき、関税は国の収入となって国庫の財源が確保できるという目論見。もちろん対抗措置の覚悟はいる。

港や空港で関税の賦課と徴収をおこない、貨物の取り締まりにあたるのが税関。国内に持ち込まれる物品の申告を受け検査をするが、外国からの入国者のテロや密輸などの犯罪の兆候をつかむ。関税と、字順を逆にした税関。これら二字熟語は、今やあの大統領の駆け引きの常套手段になった。

 読解  どっかい 解読  かいどく

(例文)「どうだ、文章は解読できたか?」「今、辞書を引いて読解しているところです」「読解? 違う、違う。きみの任務は解読だぞ!」

読解は文章を読んで、その意味を正しく理解すること。対して、解読は分かりづらい文章や記号を正確に読み解くこと。解読はある種の「深読み」であり「裏読み」である。文字面に現れない隠れた独自の文法と意味を探り出そうとする。中高生時代、国語の授業で求められたのは読解力であり、暗号解読ではなかった。

文章の<読解>
暗号の<解読>

〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても別の熟語ができる熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

来客、共食、雑談

事務所にふいの来客があれば「お久しぶり」と挨拶を交わし、昼前なら「ご飯でもいかが?」と尋ねて食事処へ。そして食事しながら雑談に興じる。知り合いだからであり、何がしかの「付き合い」のある人だからこその自然な流れである。見ず知らずの人とはそうはならない。

ところで、付き合いとは交際のことだ。ある辞書には「会えば話を交わしたり、機会があれば飲食を共にしたりするなどの親しい関係を持つこと」と書いてある。「親しい関係」とは悩ましい言い回しだが、あまり親しくない人でも「遠方よりやって来たご無沙汰の人」なら、ランチをご一緒して近況を語り合うこともある。

同じ辞書の付き合いの二番目には「心からの衝動に基づくのではなく、社交上の立場から行動を共にすること」とある。何らかの縁や義理ゆえに応対し、特に話したいこともないがやむをえず食事を囲むというような付き合いだ。こんな付き合いをやめて久しい。

仕事の締め切りが迫っていたり先約がある場合には、ふいの来客には丁重にそう伝えて「またの機会にぜひ」と添える。親しい人にそう言って見送ることも少なくない。他方、さほど親しくない人なのに、時間にゆとりがあって少々懐かしさも覚えたら食事に誘うこともある。都合の良し悪しは付き合いの親密度以上に重要になる。

と言うわけで、アポ無しの来客でも、当方の都合がよければ昼食にお連れする。しかし、そうするのは昼食だけで、アポ無しで夕食は共にしない。行き当たりばったりで夜の飲食はしないことにしている。夜が外食ばかりになると、オフィス周辺だと店の選択肢が狭まり、出費もかさむ。付き合いのある人との晩餐の宴なら、少なくとも半月前に予定を立てる。

こっちの都合が悪い時ばかりに訪ねて来る人がいる。出張で不在の時や、先客との面談中や、急ぎの仕事の真っ最中にやって来る。「今度は前もって教えてください」とは言いにくい。なぜなら、アポを取るほどの用事があるわけではなく、たまたま近くに来たから訪ねて来る人だからだ。

先日も訪ねてきた。しかし、仕事が一段落した翌日で、余裕があったから早めのランチに出掛けた後だった。そのランチ処は、一人ではめったに行かない、ふいの来客をよくお連れする店。早く入店したので空いていて、眺めのいい席に座らせてくれた。共食もいいが、気を遣わない一人ご飯はもっといい。

 

 

抜き書き録〈テーマ:調味〉

「調味」というテーマの本を読んだわけではない。仕事の合間に年明けからエッセイ集や詩歌集や軽いプチ哲学を読み、いつものように抜き書きしていたら、調味でつながった次第。


📖 『こんがりパン おいしい文藝ぶんげい

幸福そのものだ、と思う食べ物に、フレンチトーストがある。ミルクと卵にひたしたパンを、バターをとかしたフライパンで焦げバター色に焼き、焼きたてに砂糖をふって食べる。熱くて、ふわっとしていて、ところどころ香ばしく、心から甘い。
(「フレンチトースト」江國香織)

幸福そのものとまでは思わないが、たまに衝動的に作って食べる自家製のフレンチトーストはおいしい。著者が言う通り、香ばしくて甘いというおいしさだ。父はモーニングのトーストにグラニュー糖をまんべんなく上手にまぶして食べていた。甘いものを敬遠する人でもフレンチトーストだけはおいしいと思うはずである。

📖 『ベスト・エッセイ2016

居酒屋での会話。店員「焼き鳥はタレと塩とどちらになさいますか?」 友人A「…」、友人B「…」、私「…、じゃ、塩で」、友人AB「塩で」。白状すれば、タレのほうが美味おいしいと私は思っている。けれども、店員にたずねられて即座に元気よく「タレ!」と返答するのが何となく気恥ずかしい。
(「タレと塩」松木武彦)

30代の頃によく通った焼き鳥店の店主も「皮はタレですか、塩ですか?」といちいち聞いてきた。しかし、もし一択なら焼き鳥はすべて、塩ではなく、タレがいい。最近、焼肉でも塩が通みたいになってしまったが、断然タレのほうがおいしい。肉に合うタレを調味してこそ焼肉店の面目躍如ではないか。何よりもタレで食べる焼肉はライスに合う。

📖 『尾崎放哉句集』

煮凝や彷彿として物の味

暖かき灯にかざす新海苔の青さ

一つ目の句は五七五時代、二つ目は自由律以後の句。一句目の「煮凝にこごり」は視覚的で、ありありと想像するほどに固形物が視覚から味覚に変わる。にこごりはあまり強い匂いを放たないが、味はしっかりしている。
味付け海苔をよく食べた時期があった。しかし、新鮮な海苔なら醤油も甘みもいらない。先日アンコウ鍋の〆を
雑炊にしたが、塩で味を調ととのえずに、海苔を小さく割いて添えた。海苔の調味のワザは見事だった。

生卵こつくり呑んだ

これも放哉の句だが、生卵を割ってそのまま呑むなら余計な味付けはいらない。卵そのものがすでに味を調えてくれている。

電車で行って街歩き㊦

「電車で行って街歩き」と遊び心で検索したらGoogleAIは次のような情報を瞬時に提示した。

電車で行って街歩きするには、絶景の路線や駅チカの観光スポットを利用するとよいでしょう。
絶景の路線: 三陸鉄道リアス線、只見線、篠ノ井線、小海線、山陰本線、 肥薩線。
駅チカの観光スポット:
新大久保コリアンタウン、 横浜中華街。

絶景と駅チカに絞った感覚が独特。しかも、絶景の例が偏っているし、駅チカの観光スポットが2例とはさびしい。AIこの種のテーマにはあまり精通していないような気がする。

閑話休題――。電車で行って街歩きの『㊤編で先週土曜日に行った神戸市長田区を書いた。今日は㊦編。その翌日に訪れた大阪市港区・此花区・西区に電車で行って歩いた。この方面には自宅近くからメトロの2路線が伸びていて、どちらの路線でも15分以内で着く。

メトロの中央線に乗る。「次は弁天町~」という車掌のアナウンスを聞いて条件反射的に下車。ここは港区。大学時代、親戚の家で家庭教師をしていた。懐かしい。JR環状線に乗り換えて一駅向こうの西九条駅へ。ここでJRゆめ咲線に乗り換えてユニバーサルシティ駅へ。ユニバーサルスタジオジャパンUSJ)には2001年のプレオープンに招待された。残念ながら出張と重なっていたので断念。その後は縁もなく、一度も入場を果たしていない。

入場する気も予定もなく、隣接するユニバーサルシティ・ウォークの雰囲気だけ見るつもりだった。腹ごしらえは、ここらしいアメリカンなランチではなく、貴重なキャベツが食べ放題できるトンカツ定食を指名。食後はUSJの入場口付近で場内の様子を窺う。離れた所から紙芝居をただ見・・・する子どものような気分になる。群衆の中をさまよう気にはなれないし、たぶん半日も粘れない。頻繁に走るジェットコースターを見ているだけで時間が過ぎた。

昼食前はあまり歩いていない。西九条駅に戻り、そこから京セラドームまで歩くことにした。安治川トンネルの地上エレベーター前に出る。ここも懐かしい。安治川の河底を横断する歩道があり、此花区の西九条と西区の九条を結んでいる。昭和19年の開通と知って驚く。

エレベータ―で河底に下り、80メートルの歩道を進んでエレベーターで地上へ。わずか3分ほど。ここから京セラドームまでずっと西区で、あまりなじみのないエリア。京セラドーム近くのモールでコーヒーを飲む。ワインの品定めもしたが、買うのは見送る。帰路はメトロの長堀鶴見緑地線で乗り換えなし。たいして歩いた印象はないが、京セラドーム周辺とモール内の歩数が多かったせいか、13,000歩超えだった。

電車で行って街歩き㊤

即座に地震とはわからなかった。飛行機が墜落したと思った(飛行機墜落時の衝撃も爆音も体験したことがないのに)。当時は大阪市の郊外に住んでいた。体験したあの揺れは震度5弱だと後で知った。自宅からオフィスのある天満橋まではJRと地下鉄で約40分。オフィスは今と同じ場所である。

激しい揺れの割には家族も家財も無事だった。それを確かめた後、震源地にもっと近いオフィスのことが気になった。午前8時か9時だったか、JRは止まっていて地下鉄は一部動いているらしかった。車も自転車も所有していなかったので、小学6年生の二男の自転車を使うことにした。「この自転車は会社に置いてくる。新しい自転車を買ってあげるから」と言ってオフィスに向かった。

平時だと自転車で1時間で行ける距離だが、ガラスの破片がすさまじく、また通勤の人たちの群れで思うように進めなかった。空いた道を探りながら走り、たぶん1時間半か2時間かかって着いた。オフィスのエレベーターは止まっていた。非常階段は、当時夜間は鍵をかけていたので、使えなかった。昼前にエレベータ―が動いた。オフィスはほとんど何事もなかった。一駅向こうの北浜の知り合いのオフィスではスチール製のキャビネットが全部倒れていたと聞いた。


先週の1月17日(金)は阪神淡路大震災から30年の日。翌土曜日、自分の体験を踏まえて回想を巡らしていたが、まるで戦場のような大火災の戦慄、焼きつくされた現場で茫然自失で立ち尽くす老女の姿が浮かび上がった。長田に行くことにした。長田で下車するのは初めて。土地勘がなく長田と新長田の距離感の違いも知らず、まったく見当もつけずに大阪メトロと阪神電車を乗り継いで高速長田駅で降りた。

長田神社に参拝して前日できなかった黙祷と鎮魂。もちろん無言だが、思いは文字にもならない。火災で焼失した商店街の再生の様子を見ようと、商店街をいくつか巡ってみた。街のビフォーは知らないが、ビフォー/アフターを想像しながら歩く。道すがら出くわすやや広めの広場や公園のことごとくが、避難のための防災スペースに見えた。

住宅地でも商店街でも焼肉・ホルモン、お好み焼き、洋食の店が目に付く。いつぞやのテレビのドキュメントで見た店には行列。並ぶ根気がないので、商店街の外れの店に入り、ぼっかけ(牛すじ・コンニャク)入りのネギたっぷりのお好み焼きを食べた。10年以上にわたって、防災・社会貢献ディベート大会に携わってきたが、ある年の大会後にぼっかけの焼きそばとお好み焼き、そばめしで打ち上げをしたのを思い出した。

土曜日の「電車で行って街歩き」の歩数は約15,000歩。もっと歩けたが、翌日曜日にも出掛けるつもりだったので欲張らなかった。

〈続く〉

語句の断章(61)表と裏、裏と表

ほとんどの人に表と裏があり、二つ以上の顔があるものだ。二面性は心理と行動と言語に現れる。裏と表があるのは人間の防衛本能か……強ければ表一つで生きていけるが、弱いからこそ裏が必要……というような小難しい話は見送って、「表と裏」と「裏と表」は同じ意味なのか、もしそうでないのなら何が違うのかを考えてみたい。

これまで辞書で「うら」を調べたことはない。手元の新明解国語辞典で初めて引いた。「表(正面)と反対になる側(面)」とあり、「紙の裏」という例が挙がっている。では、「おもて」の意味は? まさか裏の反対ではないだろうと思いつつも嫌な予感もした。「対蹠的たいしょてきな二つの面のうち、その物を代表する面」という語釈を見て、少しほっとした。

表裏  「おもてうら」と読む。言動や態度は表に出て、それとはまったく相反する内心は裏に秘める。表裏と書いてあったら「ひょうり」とも読むが、「おもてうら」と同じ意味である。「表裏のない人」とは、他人がいようがいまいが、状況や立場がどうであろうとも、考えも行動も変わらない人である。

裏表  「うらおもて」と読む。表よりも裏を先に言うのだから、意味またはニュアンスが変わるはず。辞典には「表と裏が通常とは反対の状態」と書いてある。つまり、本当は裏なのに表のように扱うこと。裏返っているシャツを通常の表だと思って着たら裏表だった、というケース。「表裏のある・・人」よりも「表裏のない・・人」のほうがしっくりくる。他方、「裏表のない・・人」よりも「裏表のある・・人」のほうがしっくりくる。

ところで、造幣局で作っている硬貨には公式の表も裏もなく、作業時に年号の入っている面を便宜上「裏」と呼ぶらしい。必然、草木の図案が描かれている面が「表」になる。「硬貨には表と裏がある」と言っても怪しまないし、「へぇ」と驚くこともないが、人に表と裏を使うと途端に意味深になる。

「表と裏」と「裏と表」は同じ意味でも使われるが、「物の表面と裏面」の区別をするだけなら原則として前者でよく、表と裏は対等である。他方、「裏と表」は、単なる裏面と表面の区別にとどまらず、比喩的に人とその生き方に言及する。そして、この時の裏は主役に躍り出て、人の関心を引き寄せる。脇役の表は裏に随う。

休日の午後の心変わり

ミシェル・ビュトールに『心変わり』という作品がある。ローマ在住の愛人に会うために列車に乗り込んだ主人公。パリで同棲しようという話をするためだったが、長い時間を車中で過ごし、記憶をまさぐるうちに決意が変わる……。

人間誰しも心変わりはするものだが、ぼくの場合は人間関係とは無縁の軽い心変わり。どちらかと言えば、たわいもない気まぐれに近い。

職住近接してからちょうど20年になる。自宅からオフィスまで1.2キロメートル、徒歩で123分。主な経路は3つ。家を出たらオフィスに向かうし、オフィスを出たら家に帰る。たまに往路ではドラッグストア、復路ではパン屋に寄る。それ以外に寄り道することはほとんどなく、心変わりも起きない。起こるとすれば、休日の午後の小さな心変わりだけだ。直近では先日の日曜日がそんな日だった

正午前に自宅を出て大阪梅田まで歩くことにした。途中商店街でランチを挟んだので2時間弱かかったが、どこにも寄らなければ45分で行ける。人混みは苦手だが、梅田に行くと決心した時点で覚悟はできている。学生時代から見慣れたホテルや阪急三番街とその周辺。まもなく再開発に入る。計画から完成まで10年かかると聞いた。

人をかき分けながら歩くので思い通りに進まない。シティバスに乗って帰ることにした。JR大阪駅前発の路線62の住吉車庫行きに乗り、難波宮跡公園近くで下りる。所要24分。よく利用する。いったんそこに並んだが、すぐ隣の路線88が目に入った。天保山行きである。並んでいた路線62の列から離れ、まったく違う方向に行くバスに乗り込む。「テンポウザン」という懐かしの響きが気まぐれを起こした。

JR大阪駅前から天保山まで途中の停留所は31もあり、46分かかった。観光名所の海遊館に入るわけでもなく、観覧車に乗るわけでもなく、周辺を歩くでもなく……。マーケットプレイスでコーヒーを注文し、コーヒーだけでは物足りないのでドーナツを合わせる。デッキに出てみた。

大阪港に来たのは久しぶりだ。反対側を向くと、まだ午後4時なのに、逆光が夕暮れを演出していた。

帰りは最寄のメトロ駅から自宅最寄駅まで乗り換えなし。大阪市は狭くて高密度、そして便利だ。自宅を出てからわずか4時間半の周遊なのに、ちょっとした心変わりのお陰でどこか遠くへ行ってきたような気分に浸れたのである。